長崎街道

轟木宿へ
~佐賀藩の内情を表す宿場町~

所々にこうした古い商家が点在
▲轟木川現在の様子

  轟木宿は肥前鍋島藩の東端に位置する国境の宿場町で、轟木川(別名番所川)を対馬宗藩との境界とし、番所が設けられ藩士1人足軽9人を置いて旅人の荷物を厳しくチェックしていました。轟木川は今では橋が架かっていますが、当時は飛び石渡りでした。橋を架けなかったのには、防御と馬の足を冷やすためだということがあったようです。

  国境の重要な防御地点で往来が多く、江戸時代の記録には「宿屋、茶屋多し、宿々におじゃれ女置けり」と記されています。大名や幕府の要人の宿泊・休憩所である御茶屋のほか、13軒の旅籠や大工や鍛冶屋の店も軒を連ねていました。今では静かな住宅街ですが、街道は昔のままその名残を見ることができます。そんな轟木宿を歩いてみましょう。
日子神社
▲日子神社

  轟木川を渡り少し歩くと、右手に静かな佇まいの日子(ひこ)神社があります。鍋島藩初代藩主鍋島直茂が勧請したこちらの神社で、旅人は旅の安全を祈りました。境内には肥前石工が作った独特の形をした鳥居が今も古めかしい姿を私たちに見せてくれています。

  こちらには幕府の告示を掲げる「高札場」(肥前では制札場と呼んだ)があり、といって、御触書が掲示されていました。伊能忠敬はここを測量の基点にしています。また、シーボルトもここで太陽の高度を測りました。

中冨記念くすり博物館
▲安良宿東口

  轟木宿をしばらく歩くと安良(やすろ)宿、村田宿という小さな宿場があります。轟木宿に宿泊客が多く泊まりきれない場合、この二つの集落が下級武士たちの分宿地となっていたそうです。佐賀藩の内情は複雑で、主家の龍造寺氏に代わって佐賀藩主となった鍋島勝茂の領内には、諫早、多久などに龍造寺の庶流が残り、さらに、もとは鍋島氏と同格の神代、松浦ら在地の領主も存在。彼ら旧勢力は、勝茂を藩主として承認する代わりに、既得の領地を留保して佐賀藩の重役となっていました。そんな内情から安良宿など、藩指定の合宿や郷宿が存在し、宿場によって町のつくりが異なっていたと考えられています。

  田代宿は対馬藩の飛び地でしたので、轟木宿から西を「長崎街道肥前佐賀路」として紹介していきます。この肥前路にはこの先いくつもの宿場町がありますが、福岡藩の筑前六宿のように統一された構え口を持ち規格化された宿場町はありません。肥前路の面白さは、宿場町のつくり、雰囲気が違うところにあるのかもしれませんね。

次は、中原宿へ参ります。


長崎街道を歩こう!

【轟木宿】
○江戸時代の国名/肥前国
○現在地/佐賀県鳥栖市轟木町
○アクセス/
  電車…JR長崎本線、鹿児島本線鳥栖駅から徒歩約20分、タクシー利用で約5分
  車…九州自動車道・長崎自動車道鳥栖ICから車で15分
○まつり/鳥栖山笠(夏休み最初の土日)、まつり鳥栖(7月最終日曜日)、村田浮立(10月中旬)、長崎街道まつり(10月下旬)、四阿屋神社の御田舞(10月下旬)、とす弥生まつり(3月最終日曜日)

【日子神社】
○所在/佐賀県鳥栖市轟木町1478
○アクセス/
  電車…JR長崎本線、鹿児島本線鳥栖駅から徒歩20分、タクシー利用で約5分
  車…九州自動車道・長崎自動車道鳥栖ICから車で15分

【参考文献】
『長崎街道を行く』 著/松尾卓次 発行/葦書房
『長崎街道2 肥前佐賀路』 発行/図書出版のぶ工房
『栖 すみか 第40号記念号』 発行/鳥栖郷土研究会
『肥前路を行く』 発行/佐賀県立博物館

【写真&資料】
写真&資料提供 鳥栖市役所
写真提供 「ふるさと佐賀探訪」