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長崎街道

日見宿から日見峠を歩く ~峠から眺める長崎の山々~

 勝海舟やシーボルト、坂本竜馬たちが後にした矢上宿を背に、次なる目的は、日見宿、そして日見峠です!
実は矢上宿から日見宿までの距離は、わずか2kmほど。諫早、矢上方面から長崎へ向かう人たちはこの地で準備をととのえ、長崎へ入ったそうです。
現在では、住宅街やトンネルなど本来の長崎街道と形は変われど、長崎の玄関口には変わりありません。
腹切坂
▲腹切坂

 ここは、日見・矢上境。
「腹切坂」というなんとも奇妙な気になるスポットがあります。

 この「腹切坂」には、こんな言い伝えがあるそうです。

 江戸時代、熊本の細川藩から来ていたひとりのお侍さんが日見の町人で棒術の使い手である農民・作右衛門へ試合を申し込んだところ、お侍さんが破れてしまい、武士の面目が立たないとこの坂あたりで、腹を切ってしまいました。気の毒に思った村人たちはそのお侍さんを丁重に葬ったことが由来にあるそうです。また、別の話もあって、1808年(文化5年)、イギリスがオランダ船を拿捕する目的で軍艦フェートン号で長崎港に侵入しました。そのときに、オランダ商館員2人を人質として捕らえて「食料や水などを提供しなさい。さもなくば停泊中の船舶を焼き討ちするぞ」と通告しました。長崎奉行はこれをやむなく受け入れ、翌日イギリス軍艦は港外へと去りました。長崎奉行・松平康英は、責任をとって切腹。さらには、勝手に兵力を減らしていた佐賀藩家老数人も佐嘉領矢上に入ったこの坂で追い腹を切ったそう。

 しかし、現在は、生々しい過去の出来事にとらわれることなく明るい住宅街が広がっています。
地元の人によっては、腹切は切腹のことではなく、山の中腹を切って通した坂との話もあります。
三国橋
▲三国橋

 江戸時代、この宿場には「三国屋」という酒屋さんがあったそうです。
「五郎七」という名前でせっせと酒屋と営む傍ら状待ち(飛脚)を務めていました。ある梅雨の日のこと。五郎七さんは、江戸から急ぎのを代官所に届けようとしていました。しかし、目の前に広がるのは、あまりの雨の強さに崩壊してしまった川の姿…。五郎七さんは、歩いて川を渡ろうとしますが、とても歩いて渡れるような状況でありません…。そして、五郎七さんは、服をぬぎ、裸になって書簡を頭に巻き、その川を泳いで渡りました。それをみた代官は感動し、「何か望むものはないか」と聞きます。すると、五郎七さんは「この土地の人たちも、長崎へ向かう旅人たちも、日見川に橋がないので困っています。願わくは、日見川に橋を架けてくださいませんか」と言ったそうだ。自分よりも他人を優先する思いやりの気持ちを持つ五郎七さんにさらに感激した代官は「三国橋」を設けたのです。 その橋の現在の姿はこちらです。

 五郎七さんのその勇ましいな様子が目に浮かぶ気がしますね。

 橋を渡ると、「日見宿」の標柱があります。
日見宿
▲日見宿
日見継ぎ場跡
▲日見継ぎ場跡
 宿場と言えば、旅人を宿屋に泊めたり、休ませたりするというイメージがありますが、ここ日見宿はと言うと…長崎に近いので、宿泊する旅人というのは、めったにいなかったそうです。ただ、継ぎ場と呼ばれる人馬の中継所で一息ついていたところだそうです。日見継ぎ場跡には、大きな藤棚があり、その下で休んでいたそうです。
 道はだんだん坂道へと進みます。いよいよ長崎街道最大の難関といわれた日見峠へ…。
 日見峠は、かつて長崎の主要な出入り口として晩所がおかれ、長崎を旅立つ人々を見送った場所でもあります。その歴史は古く、天正のはじめごろ(1574年)に深堀氏が長崎氏を攻めようと綱場に兵を集め、火を焚いて威勢を示したところ長崎方は偵察により、これを察知し備えを固めたと伝えており、このことから火(日)見峠と呼ばれるようになったと言われています。
山道で望める景色
▲山道で望める景色

 日見トンネルの脇にある道より、峠を目指します。
くねくねと、曲がる小道を歩くと澄んだ景色が広がります。
天気がよい日には、雲仙までも伺えるとのこと!

 緑の中を歩いていると開けたところがあり、そこには崖を切り込んだ場所に頭上に馬の頭が刻まれた“馬頭観音”が祀られていました。
「坂、甚だ峻、馬に乗ること難し」(『長崎行役日記』より)とあるように、長久保赤水は、厳しい峠越えの様子を書いていますが、この道は当時、馬も道を踏み外して、命を亡くしてしまうほどの難道。きっと多くの旅人たちが、「無事辿り着けますように…」とお祈りしたことでしょう。
そして、道脇には日見峠の山から湧き出る水場もありました。
馬頭観音
▲馬頭観音
湧き出る水
▲湧き出る水
 ここは、明治15年に長崎や諫早の人たちによって作られた日本初の有料道路です。通行料は、馬車5銭、荷車3銭、人力車2銭など。地元の人は無料で通行できたといいます。それは、全国的に鉄道が展開する前のこと。その頃の陸上での新しい交通手段と言えば、馬車と人力車でした。しかし、険しい峠はこれらでは超えることが難かったのです。そこで、峠を切り開き馬車や人力車が通れるようにする必要がありました。よって、この道路ができたのです。
明治新道(1888年)
明治新道(1888年)
▲明治新道(1888年)
 息が切れるほどの急な坂道…。江戸時代の旅人はわらじを履いていたそうですが(シーボルトは靴)、1日30~40kmも歩くのですから、半日も持たなかったことでしょう。そのために、各宿場ではもちろんわらじが売られていたのだとか…。
 しばらく進むと右手に「日見峠関所跡」という立て札が見えてきます。
鳥居をくぐり、緑が深くなっていく、道を進むと木々のわずかな隙間から、稲佐山の風景が伺えます。
日見峠関所跡
▲日見峠関所跡
鳥居
▲鳥居
峠途中から望む稲佐山
▲峠途中から望む稲佐山
 今も昔も、さまざまな困難を乗り越え、自分と戦いながら越えたからこそ伺える長崎の街並みに誰もがうれしく思うはずです。

  二十三日 長崎着、日見峠甚だ難所、
 直ちに奉行之御役宅へ行き面会、
 洋船未着之由を聞く、福済寺旅宿となる。
 (『海舟日記』より)

 23日、一行はゆっくりと腰を休める間もなく長崎へと向かいました。上記のようにまた海舟も険しい日見峠を越え、長崎の町へ入ったことでしょう。
街道一急な坂道として知られた日見峠。江戸参府に赴くオランダ使節、幕末の志士たち…往くも還るも、旅人の心に「長崎」を焼きつける道であったことは間違いありません。現在も往時の姿を残し、たくさんの旅人たちを見守っていることでしょう。

 最終回は、 終点でもあり始まりでもある天領・長崎です!


長崎街道を歩こう!

【日見宿】
○江戸時代の国名/長崎
○現在地/長崎市宿町
○アクセス/
 バス…中央橋より長崎県営バス「綱場・春日車庫前水族館行き」に乗り「日見宿跡」下車すぐ

【腹切坂】
○所在/長崎市宿町付近
○アクセス/
 車…長崎電気軌道「蛍茶屋」電停より国道34号線 を車で15分

【日見峠】
○所在/長崎市本河内町と芒塚町の間
○アクセス/
 電車…中央橋より長崎県営バス「綱場・春日車庫前水族館行き」に乗り「西トンネル口」下車・徒歩
 車…県道116号線日見トンネルを正面に左側から登る

【明治新道】
○所在/長崎市本河内町と芒塚町の間
○アクセス/
 車…県道116号線日見トンネルをぬけ左折

【参考文献】
『江戸参府紀行』 著/シーボルト 翻訳/斎藤 信 発行/東洋文庫
『長崎街道を行く』 著/松尾卓次 発行/葦書房
長崎県地域振興部地域政策課 長崎街道を活かした地域づくりHP (http://www.pref.nagasaki.jp/n-kaido/

【写真&資料提供】
長崎市文化観光部文化財課
ながさきプレス

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